後藤新平が脳溢血で倒れる日に残した最後の言葉は、
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
明治・大正・昭和にかけて活躍した政治家・医師である後藤新平伯爵。彼の金遣いはとにかく豪快だった。贅沢に使ったのではない。「人」に注ぎ込んだのだ。
弊事務所で会計入力ソフトを導入して頂いているお客様には、㈱TKCから毎月「戦略経営者」の雑誌が送られています。ちなみに弊事務所の自計化導入率は77.8%です。弊社では、クライアントの約8割が自社で伝票入力をしています。自計化とは、自社で会計を入力するという会計業界の造語です。
話がそれました。その「戦略経営者」では、現在、「後藤新平のリーダー学」が連載されています。毎回楽しみに読んでいるのですが、3月号第三回の記事は、大変感銘を受けました。後藤新平はとにかく「人物」に金を惜しみなく使ったのである。その数々の豪快なエピソードの中から第一級のものを一つご紹介します。
**************
1923年、摂政宮(後の昭和天皇)が乗った車がテロリストに狙撃された。「虎の門事件」である。摂政宮は無事だったが、警務部長の正力松太郎は、責任を取って野に下った。
正力は赤字続きの「読売新聞」の経営を知人から持ちかけられる。再建には10万円、今日なら10億円以上の資金が必要だった。当初、三井、三菱が用立てるとみられていたが対抗紙に突き上げられるのを嫌って出そうとしない。
正力は、伊豆長岡で静養中だった後藤を訪ね無心をした。後藤は言う。
「よろしい。二週間たったらとりにこい。ときに君、新聞というものは非常に難しいと聞いておる。君がやって失敗したらきれいに金を捨ててこい。おれにその金を返さんでもよいぞ」
そして約束どおり二週間後、後藤は10万円を手渡しながら、こう申し渡した。
「しかしね、おれが金を出したことはだれにも言うなよ」
その出所は某実業家だと噂された。じつは後藤自身が麻布の土地を担保に工面したものだった。没後、担保書類によって事実が判明し、正力は感涙にむせんだという。
後藤にとって土地や屋敷は政治資金を作る道具に過ぎなかった。新平が亡くなると、後藤家には55万円もの借金が残された。遺族は不動産の売却で糊口を凌いだ。麻布桜田町の邸宅は「満州国大使館」に転売される。現在そこは「中華人民共和国大使館」。六本木ヒルズの西、テレ朝通りの外れに位置している。
「子孫に美田を残さず」
言うは易し、行うは難し。「無私」を貫いたリーダーにして初めて成し得ることだろう。
「戦略経営者 2008年3月号78頁 ㈱TKC 『後藤新平のリーダー学 ~文:山岡淳一郎氏』より」
*****************
山岡さん、丸写ししてすみません。でも、どうしてもこのエピソードと後藤新平という人物を広く知ってもらいたかったのです。ぜひ山岡淳一郎氏の著作「後藤新平 日本の羅針盤となった男」をご一読下さい。
思えば、文明開化をした明治時代には、「欧米列強へ追いつけ」の名の下、才能ある人物へのエリート教育を援助する篤志家が数多くいたものです。当時の政治や財界のリーダーたちは、「ノーブレス・オブリージュ」(高貴な義務)の精神を持って、「国を造るんだ!そのためには・・・」という尊敬に値するリーダーが大勢いました。
誰とは言いませんが、現在の起業家たちの多くが拝金主義に、そして自分だけが良ければいいという風潮に流れているように思えてなりません。また、お役人にも、税金を食い潰すことに執着している人が多いように思えます。そんな風潮の中、後藤新平という生き方があるんだということを知ってもらいたいんです。
かく言う私も、55億円の借金を子供に残してまで人を応援する器量はとても持ち合わせていません。その意味で後藤新平氏のスケールの大きさに只管感服するのみです。
でも、(スケールの小さすぎる話ですが)小山税務会計事務所を自分の子供に継がすということは、これっぽっちも考えていません。そして、私がまず今出来る事は、小山税務会計事務所で多くの世の役に立つ税理士もしくは職業会計人の後輩を一人でも多く輩出する事だと思っています。
そのために弊事務所では見込みのある若者を出来るだけ多く採用したいと思っています。唯一の条件は、税理士試験に3科目以上合格している事です。欠員募集ではないので、選考はかなり厳しいです。ただ、「人物だ!」と思った方には、私の給料を下げてもお迎えします。随時募集しています。まずは、履歴書、職務経歴書を郵送下さい。
正社員:http://furusato.tkcnf.or.jp/jobinfo/bejff00007.html
パート:http://furusato.tkcnf.or.jp/jobinfo/bejff00006.html
クリックよろしく!

最近のコメント