ばたばたと忙しない物音から、母がもう出かける時間なのが判る。スリッパの音は、裕士の部屋の前まで来て止まった。
「予備校に行く時間でしょ。母さんもう出るから、その前にちゃんと行ってよね」
裕士の母、前野真由美が化粧水をすっぴんの顔に叩きながら、裕士の部屋を覗き込んだ。前野は母方の姓だ。裕士は、六歳の時に桐谷から前野に苗字が変わった。素面の母親の顔を久し振りに見て、「少し老けたな」と裕士は思った。母ももう四十三歳だ。四十歳を超えた頃から、目元にシミと小皺が目立つようになってきた。それでも、和服を着て、髪を上げて店に出て行く姿は、子供ながらに凛とした美しさを感じた。時に冷たいように怖くもあり、時に励まされるように温かくもある働く母の後姿を見て、裕士は特にぐれる事も無く高校まで育ったのだと思う。
裕士は十冊の参考書や問題集をデイパックに詰め込んだ。どうせ、全部やりもしないのに。持って行かない不安に突き動かされているだけさ。持っているだけで満足しているのだ。ずっしりと重い、デイパックをぐいと担ぐと、背と一緒に気持ちが三センチ縮んだ気がした。マンションの階段を降りて、駐輪場に止めてある250CCのビッグ・スクーターの椅子を持ち上げる。ヘルメットを取り出し、バックをメットインに押し込んで、エンジンをかける。
ブバババババッ・・・
凄い音がマフラーから響いた。十六の歳に十五万円で買ったこのセコハンのバイクも十ニ年ものになる。もうそろそろ換え時だろうか。
――車の免許を取ったら、バイクなんか乗らなくなるぜ。
ストレートで大学に行った横山良幸がそう言っていたのを思い出す。大学に受かるまでは、車の免許を取らない―そう、決めていた。今年できちんと大学に受かって、このバイクとおさらばするか。あと半年だ、がんばろう。そう思うと、アクセルを上げて通りに走り出した。
**************【次回へ続く】*********************
注:この小説はフィクション(嘘)です。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
夢の中でルカは横を向いて、少し俯いていた。裕士は、その横顔を眺めていた。切れ長の目は穏やかな観音像のように閉じかかり、その瞼の先には、人形のように長いまつ毛が生えていた。ルカは教室の窓の外からの逆光線に包まれていた。それは、とても美しい光景だった。
ふいに後ろで激しい物音がした。ルカは、切れ長の目を神経質に細め、眉間を寄せた。激しい音は鳴り止まなかった。左の眉尻が上がり、右の眉尻が下がり、ルカは顔を歪めた。
音は更に激しさを増した。ルカは、食いしばるように下を向き、やがて耳を塞いだ。裕士は、いたたまれなくなり、駆け寄ってルカを抱きしめた。
抱きしめると一転、場面は変わり、二人は裸で抱き合っていた。優しい光に包まれ、穏やかに二人は抱擁しあっていた。裕士は、この幸せな一秒が永遠に続くことを祈っていた。
――と、いうところで目が覚めた。もっと夢の続きを見たかったが、寝覚めはとても良かった。ただ、なんでルカの夢を見たのかが判らなかった。高校を卒業してから、もう四ヶ月も会っていない。――といっても、別に高校時代にルカと裕士の間に交流があった訳ではない。裕士が一方的にルカをずーっと遠くから見ていただけである。宿題のノートを借りるといった事務的な会話以外では、一回しか会話はしたことが無い。その一回を裕士は今でも鮮やかに覚えている。
文化祭のクラスの打ち上げがあった時、裕士は待ち合わせ場所に文庫本を持って現われた。そして、ルカの前でおもむろに文庫本をジーンズのポケットにしまった。
――何の本を読んでいるの?
案の定ルカは聞いてきた。
――太宰の「人間失格」だよ。
裕士はぶっきら棒に答えた。
――へえ、ユーシくんてそういう本を読むんだ。意外だね。
――意外って?
――勉強も、スポーツも、音楽も、何でも出来るユーシくんに悩みなんて無いと思ってたから。
――いやいや、俺だって悩みばっかりだよ。
――そう、やっぱり、みんな同じなんだね。
――え、ルカも悩みなんかあるの?
――うん・・・まあね・・・。ユーシくんになら、話せるかな。実はね・・・
そこで、ルカは友達に呼ばれた。至福の時間をぶつ切りされたのは腹立たしかったが、裕士は反面得意気だった。ルカの目の前で本をしまい、話しかけてもらうという裕士の作戦通りに物事が進んだからである。「人間失格」なんて、読んだ事も無い。ただ、「太宰治」、「人間失格」とルカに言いたかっただけである。何の根拠も無いが、それが格好良い事だと思えただけだった。男子の輪に戻ると、女子と話していたことを冷やかされた。
裕士が学校で見かけるルカは、いつも本を読んでいた。裕士はいつもその横顔を遠くから見ていただけだった。ルカはどちらかというと独りでいることの方が多かった。友達と連れ合うことを避けているようにも思えた。その孤高な雰囲気は、神聖な女神のように眩しく裕士には見えた。あの時以来ルカと話す機会が訪れないまま、卒業式を迎えた。あの時、ルカは何を言おうとしたのか。日本海溝より深い海の底に、何か置き忘れをしたような心残りだけが卒業後も残った。
昨夜見た夢の事を、携帯で伊藤峻に話したら、
「ルカと抱き合った夢?欲求不満だろ!」と、シュンは取り合わなかった。
**************【次回へ続く】*********************
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注:この小説はフィクション(嘘)です。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
彼女の名前はルカ。彼女は二階に住んでいた。
裕士は、高校の時、彼女に憧れていた。塾帰り、自転車でルカのマンションを通った。見上げて、窓に明かりが灯っていると、ルカがそこにいるのだろうかと胸がきゅんとむず痒くなった。そうして、裕士は寄り道をして、夢見てるルカの家の横をサヨナラ呟き走り抜けていた。高校卒業後のルカの進路は知る由も無い。きっと、都内の大学か短大にでも進学したのであろう。
その夜は、何故か、ルカの夢を見た。
**************【次回へ続く】*********************
スザンヌ・ベガの「LUka」.軽快な音調で歌われるのだが、そこに描かれているのは救われようもない児童虐待。そのアンサーを私なりに描いてみたい。できるのか?注:この小説はフィクション(嘘)です。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
裕士はふらつきながら、気を取り直そうと、テーブルに何とかすわり、机上に肩肘を付きながら、もう片方の手で煙草を取り出そうと上着のポケットを探った。
裕士は一瞬で目が覚めた。
無い!
無いのである!
今日貰ったばかりの給与袋がジャケットに、無いのである!
一ヶ月汗水垂らして、やっとの事で稼いだアルバイト代が、あるべき場所に無いのである!
**************【次回へ続く】*********************
注:この小説はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
teenagerの小説を書くにあたって、「あの頃」の気持ちに戻るために、あの時聞いていた音楽を聞き返しています。今日は、Debbie Gibson の“out of the blue”!発表時16歳、可愛かったなぁ。あの時の少女も立派なレディになりました。
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裕士が6歳の時に裕士の父と母は離婚した。裕士の父親は税理士を開業していた。仕事で忙しかったらしく、裕士は父親を家で見た記憶はほとんどない。父親は本当に仕事が忙しかったのだと思う。子供の目にも、父は馬車馬のようにあくせく働いていたと思う。当時は広い庭のある一軒家に住み、おもちゃも目一杯買ってもらっていた。しかしある時、仕事で忙しいと思っていた父親に別の家庭があることが判った。父は終電を逃し帰れなくなった日には、その人の家に帰っていたという。そこで、その人は子供を身篭った。その晩、幼い裕士が寝ぼけ眼で襖の向こうに見た、怒号を上げている父親が最後の父の記憶だった。平日に、家で父の姿を見たのは、それが唯一の記憶といってもいい。木曜日の夜だった。その日は、雨が降っていた。ばたん、と扉を叩きつけて父は出て行った。以来、父には会っていない。
裕士の母は、女手一つで裕士を育ててくれた。母はスナックや工場やら職を転々としたが34歳、裕士が10歳の時に、小料理屋を湯河原で始めた。これが地元のお客に贔屓にされ、それなりに繁盛した。父親の姿はほとんど記憶にないが、母の姿は、いつも働いている印象しかない。外行きの服で着飾っている母の姿しか知らない。そんな母は子供の裕士から見ても美しかったが、小さい頃の裕士は寂しさだけが友達だった。生活は貧しくはかったが、裕福でもなかった。しかし、母は裕士の教育と習い事には惜しみが無かった。裕士は小学生にして、月曜から日曜まで予定がぎっしり。水泳、習字、公文、剣道、ピアノと習い事のオンパレードのスーパー小学生だった。
高学年になると、サッカーとラグビーと学習塾が加わった。その延長で、裕士は私立中学を受験する。しかし、不合格により地元の市立の中学校へ行く。中学でも私立の高校受験をするが、あえなく失敗。またしても地元の県立高校へ進学する。その県立学校は一応地元ではトップの進学校であった。そこでも、裕士は部活のサッカーと学習塾と英会話に明け暮れる・・・はずであったが、それは世を忍ぶ仮の姿。裕士は受験勉強で覚えた深夜ラジオの影響で、バンド活動に燃えていた。母親が用意してくれた英会話教室も全く行かず、その授業料はそっくりそのままCDの購入代と、スタジオ費用に化けていた。それがたたって、大学受験も失敗。
しかし、裕士は父の慰謝料の事を知って変わった。最近判ったのだが、離婚した父親からは、それなりの額の毎月の仕送りがあったらしい。父は東京で、大きな税理士事務所として成功したらしい。しかし、母はその金を生活には一切使わず、裕士の教育のみに費やした。裕士は、医学部を目指す事に決めた。父と同じ税理士にはなりたくなかった。弁護士や法律を使う、税理士と同じような仕事もしたくない。父親が文系なら、自分は理系に進みたかった。そこで、手に職をつけて稼ぐには・・・医者が思い浮かんだ。働き通しで、財産は築いたが、家庭を壊した父。その後、子供と自分が生きるために働き通した母。裕士は、自分と親を引き離した「仕事」というものを憎んだ。そして、どうせ、働かなくては人は生きていけないのであれば、コネも財産も何も無い自分が世を渡っていく方法は、大学に行って医者になることだと信じた。母は、医大の授業料を払う分くらいは父親から貰っている、心配するな、と裕士を励ました。
教育に惜しみなく投資してくれた母に応えるには、そしてこれまでその期待に応えられなかった自分がこれから出来ることは・・・医者になることだと、裕士なりに思っていた。そして、朝から晩まで働き通しだった母に少しでも楽をさせてあげたい、とも思っていた。
**************【次回へ続く】*********************
注:この小説はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
宇治屋は中学の同級生だったが、中学の時より、裕士が高校に進学してからのほうがよく遊ぶようになった。宇治屋は、高校へは行かず、両親がオーケストラをやっていた関係で、音楽の専門学校に進んだ。宇治屋は、トランペットを専攻していた。トランペットで、バークレー音楽学院に進学するんだと息巻いていた。しかし、裕士の宇治屋への印象は、トランペットというよりも、スケートボードに乗っている方が強い。というより、宇治屋がトランペットを吹くところは1回しか見たことがなかった。宇治屋は毎日のようにスケートボードに乗っては、海岸線を、駅前周辺のロータリーを、もしくは真夜中の公園を走っていた。中学生の頃は小柄だった宇治屋だが、中学卒業後に身長がめきめき伸び、それと同時に宇治屋に自信が出て来たのであろう。ファッションも粋な宇治屋は女の娘にも当然もてた。宇治屋の横にはいつも女の娘が居たが、その娘たちの顔ぶれは会う度にいつも違っていた。宇治屋はそんな女の娘の友達を何かにつけては、裕士に紹介してきた。裕士も決して嫌いじゃなかったので、その紹介に応じたが、宇治屋セレクションの女の娘の好みには、進学校に通う真面目な裕士が適うことは少なかった。それでも宇治屋は何かにつけて、裕士に紹介してきた。まるで、宇治屋は彼なりに、裕士に恩でも売っているかのように。
進学校である裕士の高校にはいないタイプであった。家が近所ということもあって、宇治屋は夜、裕士の家にふらり、とよくやってきた。二人は夜の公園で犬の散歩をしながら、しゃべりあった。裕士は愛犬リッキーを連れて、宇治屋は夜の住宅街にガラゴロとスケボーのローラーの音を響かせながら。裕士は当時からそして今も、自分と宇治屋の関係をトム・ソーヤとハックルベリー・フィンみたいだな、と思っていた。二人は親友といってよかった。そう、あの日までは―
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なんか、どっしりと背中に重さが圧し掛かったように疲れた。うつ伏せに寝るとその重さに押しつぶされそうだったから、裕士は、その重さを振り払うようにくるりと仰向けにベッドに寝そべり、両手を頭に組んで枕にし、天井を見上げた。天井のシミがとても汚いものに見えた。空調の、コーッという音だけが部屋には響いた。俺は何をやっているんだろう・・・泣きたい気分だったが、別に涙は出てこなかった。ただ、ただ、重く、疲れた。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような胸の痞えを取り払うために、時たま大きく溜息をついた。
何度目かの溜息の後、しばらく忘れていた中学時代のクラスメート宇治屋雅樹を思い出した。
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少女は一、二分、立ち尽くして少年をじっと見つめていた。少年は俯いたままベッドに片手をついて座っていた。やがて少女は、乱れた服を着なおすと、ドアを開けて出て行った。
外に出てもドアをすぐに閉めずに、少女はドアの外からじっと少年を見ていた。そして、
「・・・アリガトウ」
と、少女は言った。少年は、俯いていた頭をゆっくりともたげると、少女を見た。ドアの向こうに外行きの服を着て立っている少女をあらためて見ると、やっぱり綺麗な娘だな、と思った。そしてこの娘にこの先、幸せな良い事があればいいとも思った。ドアが閉まれば、少年と少女は何の関係も無い二人に戻る。少年は何か言いたかった。
「きっと、良い事あるさ。くさんなよ・・・」
少女は何も言わず、じっと少年を見ていた。裕士は思った。いまいち、伝ってないな、もっと何か言うか。
「あ、それに俺は大学生なんかじゃないよ、浪人生なんだ・・・。でも、俺も頑張るから、きみも頑張れよ。」
「アリガトウ」
少女は最後にそう言って、ドアを閉めた。
ばたんっ。
あー、終わった。少年は大きく息をついた。
**************【次回へ続く】*********************
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ナンデモスルカラ
その言葉に、裕士は、ユイの心の奥の深い闇を感じた。が、それには触れず、ユイの差し出した手首の傷をそっとなぞった。ざらざらしていた。まるで、少女のざらついた心の傷が浮かび上がったかのように。
「ほんとうに死ぬつもりは無いんだろ・・・?」
ひっく、ひっくと泣きじゃくり、目を腕で拭きながら、ユイは答えた。
「・・・嫌な事が有った時にリスカをすると、すっとするの・・・」
「もうやめろよ、こんなこと。何の解決にもなんないぜ・・・」
「・・・」
少女は何も答えなかった。少女の嗚咽する姿を見守りながら、少年は、「少女が本当にリストカットをやめたら良いのにな」と思った。
**************【次回へ続く】*********************
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裕士は確信を持って問い詰めた。
「財布、見せてくれよ・・・」
ユイは鞄の中をじっと見ていたが、しばらくして立ち上がった。立ち上がると、早口で、
「うん、いいよ。だけど、ちょっとお父さんから貰ったものがあって見せたくないものがあるから、整理だけさせてね」
とか何とか煙に巻いてトイレに駆け込もうとしたので、裕士はユイの腕を強く掴むと、ユイの目を射抜くように怒気を強めて、「今、見せてくれ」と言った。
ユイは観念したように、「うん・・・」と頷くとベッドに座り、布団の上に財布の中身を広げだした。何枚ものカードやら会員証やらを無造作に投げ出すと、顔を見上げて聞いてきた。
「ねえ、ほんとの事を言ったら怒らない?」
「ああ・・・」
と、裕士が答えると、最後に札束を放り投げた。数えはしなかったが、何枚もの壱万円札やら千円札が布団に、ひらひらとばら撒かれた。まるで舞を舞うようにゆっくりと目の前で落ちていくお札を見ながら、裕士の信じようとしていた「何か」も、ひらひらと零れ落ちた。
「俺の財布から金抜いただろ」
裕士は床に落ちたお札を拾って自分の財布に入れようとした。するとユイは豹変したように、顔を覆いベッドにうつ伏せると、
「ごめんなさい、ごめんなさい、だから殴らないで、殴らないで!」
と、わんわん、泣き出した。裕士はユイの背中を撫でながら、
「殴りなんかしないよ・・・」と、声を掛けると、
「私のお義父さんは、私が悪い事をするといつも殴ってきたから・・・、だから殴らないで、ごめんない、なんでもするから・・・ごめんなさい」と言って、左手を差し出してきた。
見ると手首には無数の切り傷が階段のように切り刻まれていた。リスト・カットの跡だった。
**************【次回へ続く】*********************
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気がつくと蝉の鳴く季節になっていた。駅の裏山に覆いかぶさるように緑一色に茂った木々からは、絶え間無く、本当に絶え間無く蝉の鳴き声が聞こえてくる。裕士は、英語の教科書から覇気無く目を上げ、駅構内を見回す。ベビーカーに子供を載せて、ゆっくりと歩く若夫婦のキャンパス・バッグからは、シャベルと浮き輪がはみ出している。サーフ・ボードを縦に抱えて、裕士と年端の変わらぬであろう男たちが、次々と電車から降りてくる。ピンクや黄色の原色の薄いシャツに、ホット・パンツから健康的な足をこれ見よがしに伸ばしている娘たちの足指の爪先には、凸凹としたネイル・アートが施されている。みな海へ行くのだ。ここ湯河原駅は、夏真っ盛りである。
銀色の車体に橙と緑の線の入った登り電車が駅に入って来た。裕士は電車に乗り込むと、横一列のベンチシートに座った。あと一時間後に予備校の小テストを控えている裕士は、太股の上に鞄を置き、その上にテキストを広げた。その上に覆い被さるように目を落とすと、兎にも角にも詰め込めとばかりに、重要構文と英単語をぶつぶつと呟きはじめた。しかし、すぐに、気が散った。隣に誰かが座ったと思うや否や、下に目を落とした裕士の視界の脇に、ぱっ、と眩いばかりの女性の太股が飛び込んできたからだ。ふーっ、と大きく一息付き、裕士が負けじとテキストに向かおうとする。が、集中なんてできやしなかった。甘い香水の匂いがふんわりと裕士の鼻を襲撃し、次いで、ぴーちく、ぱーちく、女性たちが喧しく話し始めたのだ。
「さて、この前ユカがデートした彼氏の話を聞かせてもらいましょーか。で、その後どうしたの?」
「それがさあ、彼凄いお金持ちで、車は何かわからないけど、外車に載っててさあ。左ハンドルって外車だよねー?大学は慶応で、お父さんは医者で・・・(中省略)・・・で、多分凄く高いお店だったと思うんだけど、彼みんな出してくれてさー。」
「うわーっ、それって当りだよねぇ!ね、合コンしよ!合コン!」
聴く気が無くても、裕士の左耳を強引に分け入って、二人の女性の話は耳に入って来た。非常に程度は低いと思われるが、右の会話は、本当にそう電車の中で女性が話していたのである。二十歳前後の女性特有の町中でのあの大声でのしゃべくりは、実は周囲にも聞いてもらいたい自己顕示欲なのだろうか?
しかし、低レベルと思っても、今の裕士は非常に打ちのめされたのである。なぜなら裕士の第一志望は、慶応大学の医学部だったから。そして、その話をしていた二人組みの女の子がグラビアから出てきたモデルのように煌びやかで綺麗だったから。
「絶対、慶応に行ってやる!」
非常に動機は不純だが、二十歳前の男の衝動なんてそんなモノである。
そんな大いなる野望を抱いた裕士を載せて、東海道線の電車は予備校のある小田原駅に着いた。
テストの結果?推して知るべし。裕士は大きな溜息を付くばかりであった。あぁ、慶応医学部は夢のまた夢だと・・・
**************【次回へ続く】*********************
【突然思い立った。5日間で原稿用紙40枚書くぞー、書けるのか?あと37枚】
注:この小説はフィクションです。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。
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