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2009年5月

2009年5月28日 (木)

立て!鏡のような波頭の上に 41話 3 small words

 翌日、裕士は朝九時から図書館に詰めた。途中、辺りを見渡すばかりで勉強には全く身が入らなかった。約束の11時になってもルカは来なかった。約束では、バイクで江ノ島に行くはずだった。裕士は、図書館の入り口に停めたバイクの上で、パンを齧りながらルカを待った。こんな日に限って空は空々しいほど素晴らしい天気で、その太陽の明るさが逆に裕士を空しくさせた。バイクに掛けた二つのヘルメットは風に吹かれたままで、やがて、そこには西日が差し、ついには図書館の木立の長い影に包まれた。図書館の閉館時間が来て、裕士は図書館を追い出された。バイクに跨ると、裕士はルカの家の前まで行ってみようと思った。

 ルカの家に着いた頃には、空はもう薄い炭をこぼした様な暗さになっていた。マンション二階のルカの部屋にはオレンジ色の灯りが灯っていた。裕士は、道端の電信柱の脇にバイクを停めて、シートの上に腰掛けると、煙草を吸いながら、その灯りをじっと見つめた。煙草を三本吸ったところで、ルカの部屋の明かりが消えた。しばらくして、マンションの門から夕闇に包まれた女性の影が現れた。影はゆっくりとこちらに向かってくる。電信柱の下に来た時、斜に差す街灯の光で顔が見えた。ルカだった。ルカは、力なく下を向いたまま歩いていた。

「ルカ!」

 裕士が声を掛けると、少女は顔を上げた。裕士を見ると、無防備に驚いたように顔を隠し、小さく三言呟いた。

「ナ・ン・デ?」

 その言葉は、そこにいるはずでない裕士を激しく拒絶しているようだった。そこに居るべきでない、とも言っているようだった。

 驚いたのは、裕士も同じだった。顔を見上げて目が合った時、長い前髪に隠されたルカの左目が赤く腫れているのを認識したからだ。

「ドウシタノ?」

 裕士が聞くと、ルカは今度は力強く三言だけ投げ捨てて、走り去った。

「イヤダ!」

**************【次回へ続く】*********************

注:この小説はフィクション(嘘)です。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。

今日はJosie and The Pussycats の「3 small words 」に背中を押されて書きました。疾走感溢れるこの曲を聴いていると、嫌な事も吹っ飛び、意欲を掻き立てられます!大好きな曲です。 ↓クリックよろしく!Banner2_7

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8年以上前の古い曲ですが、気に入った方はお早めに↓でどうぞ。絶版にならない内にねheart03

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2009年5月25日 (月)

井村雅代氏にみる「叱り」の極意

 立場上、人を叱る事がある。スタッフ、クライアントは運命共同体である。彼らの失敗は、私の失敗でもある。そして、私は諫言を呈するために、税理士として顧問料を経営者から頂いている。御用聞きでは税理士稼業は務まらないと思っている。だから、私で気づく事があれば、諫言を呈す。ただ道を歩いている他人、知人なら私には関係ない。

 NHK「知るを楽しむ」で放映された元日本代表シンクロナイズド・スイミング監督・井村雅代氏は、叱りのスペシャリストだ。本物である。番組で放映された彼女の言葉を金言として、備忘する。

**********井村 雅代*******************

★私、叱ってるって感覚ないんです。本当の事を言っている。

★人間は、信じるに値する。

★どうにもならない事なんか世の中にはない。必ずどうにかなる。

★性格に合わせて叱る。〈中略〉例えば、天才肌の(武田)美保に対しては、美保は強いから、この人を傷つけてやろう、と叱った。

★人は誰しも今よりも良くなりたいと思っている。(だから私は)その子をなんとか今よりも変えてやろう、その気持ちしかないんです。

★叱るのはその場ですぐ。言いそびれた時は、自分(井村)が悪かったんだと思い、もう言わない。

★叱ったら必ずフォローする。だめだ、と言ったら必ず良くなる方法を言う。

★叱る時は、冷静さを失わない。

★(グループ演技の場合、選手の)どこにレベルを合わせるか―、何でも一番上の選手に合わせる。

↓小山(以下は、番組の録画を消してしまったので定かではないが、確かこんな趣旨だった。)

監督を辞めた現在でも、意見を求められる事がある。OBとして、的確な助言を言えるためには、常に自分の目が、世界のトップレベルの現場に触れていなければならない。そうでなければ、傍迷惑なだけだ。

*************************

経営者としては、私自信は人に叱られる事が本当に少なくなってしまった。しかし、私は、自分のビジネスや自分に係りのある事にしかとんと興味がなく、その他の事柄に関しては欠如している。そんな私を叱ってくれる人がいたら・・・、確かに、耳は痛いが、手を合わせて感謝です。

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2009年5月20日 (水)

立て!鏡のような波頭の上に 40話 超プラス思考

 呆けた様に時間ばかりが流れた。時計の針は午前二時を差していた。ルカは理由を言わなかった。それを数少ない会話から、推理小説を読み解くようにほぐしていった。裕士は、ルカとの会話を思い出す。

――行くのいやになった?

――ううん、そうじゃないの

 「ううん、そうじゃないの」。この一点に裕士は一縷の望みを託した。彼女は俺の事が嫌いな訳ではない。何らかの外的要因により、自分の意思とは別のことで来れなくなったのだ。きっとそうだ。

――何も聞かないで

 と、彼女は言った。しかし、言外から匂い立つのは、「助けて!」という、彼女の悲鳴のような気がしてならなかった。明日、図書館にルカが来なかったら、ルカの家まで行ってみよう。

 そういう結論に達すると、気が楽になり、程なく裕士は眠りについた。超プラス思考な男、めげない男、といえば聞こえは良い。が、裕士の読みが外れていれば、自分に好都合な事この上ないこの思考回路は、もうストーカーの発想である。プラス思考とストーカーとの分かれ目は、自己を客観視できるか、それにもう一つ付け加えるならば、相手の気持ちを汲めるかどうかであろう。半と出るか、丁と出るか。ルカに再び会った時、最初に彼女の顔が曇ったなら、裕士は全てを諦めるつもりでいた。

**************【次回へ続く】*********************

注:この小説はフィクション(嘘)です。実在の人物、団体、事件などには一切関係ありません。

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2009年5月19日 (火)

立て!鏡のような波頭の上に 39話 涙の電話

 午後十一時、裕士は蛍光灯を点けた机で、黙々と微分方程式を解いていた。今日は閃きが良く、問題を何題もすらすらと解けた。区切りがついたので、両手を大きく伸ばし、椅子の背もたれに仰向けに寄りかかる。そして、タンスの上の新品のヘルメットに目を向けた。明日は、ルカとのバイクでのドライブの日だ。ルカに汗臭いヘルメットを被せる訳には行かないので、昼間、半帽のヘルメットを購入した。そのヘルメットがタンスの上で、裕士の傷だらけのフルフェイスとツーショットで並んでいる。まるで堤防で寄り添うカップルみたいだ、と微笑ましく眺めていたら、けたたましく携帯電話が鳴った。遅い時間だし、さっきルカとのデートを自慢したシュンかな、と思った。何かデートのアドバイスだろうかと、電話を覗き込むと、ウィンドウに表示されていたのは、ルカの名前だった。出ると、ルカは泣いていた。

「えんっ・・・、えんっ、・・・・えんっ・・・」

「どうしたの?」

 過呼吸のようにひっくひっくと泣きじゃくりながら、ルカは嗚咽の合間を縫って、言葉をどうにか絞り出した。

「・・・、ごめんね、明日の約束なんだけど、行けなくなっちゃった。本当にごめんね。」

「え、なんで?」

「本当にごめんなさい。わたしの一方的な都合なの。」

「え、行くのいやになった?」

「ううん、そうじゃないの。急にね、無理になっちゃったの・・・」

「明日が無理なら、また次の週にでもする?」

「・・・、ありがとう。でも、しばらくは、会えないな・・・」

「まあ、いやならしょうがないけど。何でか、わかんないな。」

「何も聞かないで。訳は言えないけど、本当にごめんなさい。ごめんなさい・・・」

 男は「なぜ?」としか聞けなかった。女は「ごめんなさい」としか答えられなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、とだけ繰り返し、ルカは電話を切った。ふられたのだろうか・・・。裕士は、電話を切って、しばらく動けなかった。

**************【次回へ続く】*********************

いつも応援クリックありがとうございます。怠けてしまいそうな弱い私の心を奮い立たせてくれます。見切り発車でも、とにかく書いて、前へ進むのみです!

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2009年5月16日 (土)

立て!鏡のような波頭の上に 38話 some kind of trouble,some kind of fight

 彼女の名前はルカ。彼女は二階に住んでいた。

 ルカのマンションは、新崎川のそばに在る。予備校からの帰り道、裕士はルカを想っていた。今日は夜九時まで予備校の自習室で勉強をした。勉強が信じられないくらいに捗った。心に一点の曇りも無いような清々しい心持ちだからであろう。明日は、ルカとの約束の日だ。駅から降りて、裕士は自転車がぎっしり並んだ列から自分の自転車を見つけると、取り出した。取り出しながら、反対方面だが、久し振りにルカの家へ寄り道をしてみたくなった。高校時代、部活や塾の帰り道、裕士はよくそうして家に帰っていたものだ。つい一年も前のことだが、こんなときめきははまるであの頃の瑞々しい時代に戻ったようだ。

 ルカの家の前へ来て、自転車を停める。片足を付いて、二階を見上げる。カーテンは閉まっていたが、黄色い光が灯っていた。ふと、カーテンを誰かの黒い影が横切った。ルカだろうか。裕士は裕士の知らないルカの日常を思いやった。仰ぐように更に上を見ると、マンションの頭上には、銀色の満月が燦燦と輝いていた。満天の空には、雲一つ架かからない。明日は晴れだ。それを見届けると、裕士は自分の家へ、踊る気持ちでペダルを漕いだ。

 その頃、裕士が見上げていた窓の中では、怒鳴り声とコップや皿が飛び散る音が響いていた。誰かの叫びのようなその暴力の音は、マンションの防音二重ガラスの外には、卵の殻が壁にぶつかり力なく、かつん、と微かな音を立てるくらいの振動しか漏らさなかった。夢見心地で帰る裕士の後姿には、その音は露ほども届かなかい。

 その家の中でルカは父親に髪を引き摺り回され、端正な顔を父親の足で踏みつけられていた。

「大丈夫、大丈夫・・・」

 ふらふらになりながら少女は、裕士の笑顔を思い出していた。照れ臭そうにはにかむ優しい少年の笑顔が少女は大好きだった。自分の父親もかつてはそのような優しい笑い方をしていた。実の父親に罵声を浴びせられながら、ルカは、自分が子供だった頃の若かりし父親の笑顔を必死に探そうとしていた。が、その瞬間、激しい火花が目を襲った。

 ―――もう、一時間は経ったのだろうか。酒が足りない、と大声で怒鳴りつけると、父親は逃げるように、外へ出て行った。先ほどまでの騒ぎが収まり、嘘のような静寂を取り戻した部屋の中で、ルカは、破壊された電球を踏まないように起き上がると、洗面所へ伝って行った。薄暗い鏡の中に映った自分を見て、ぞっとした。左目に毒々しい紫色のあざができていた。まるでお化けみたい、ルカは自分でもそう思った。―― 明日は彼に会えない。初めてのデートなのに。月明かりだけがひっそりと差し込む部屋にへたり込むと、少女はただ、ただ、泣き続けた。

**************【次回へ続く】*********************

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2009年5月13日 (水)

立て!鏡のような波頭の上に 37話 堰を切ったように

「あ、ひさしぶり。」

 ルカ―相沢瑠華は、笑顔で迎えてくれた。

「この前、予備校で見かけたよ。てっきり大学行ったかと思ってた。」

「うん、短大しか受かんなくてね。どうしても四大に行きたくて・・・。ユーシくんは、医学部目指してるって言ってたよね。」

「うん・・・、手に職付けるには医者が良いなと思ってね。」

「私は、看護学部目指してるんだ。」

「あ、そうなの?!」

 裕士は、一瞬妄想した。相沢瑠華が白衣を着た看護婦で、自分は医者として、一緒に大病院のロビーで話している姿を。お目出度い男だ。それを知ってか知らないが、ルカは、裕士の妄想とは繋がらない答えをした。

「助産師になりたくてね。私も、手に職付けたくてね。助産師さんなら、女手一つでも開業できるしね。」

「そうか、開業か・・・。そうだよね、俺も開業したいけど、その前に医学部に行けるかが、大問題だよ。試験はさっぱりだしね。」

「あー、この前全国統一模試で隣だったよね。ユーシくん、難しい顔してたから、声掛けられなかったよ。」

「実は、試験に行く前に、海岸線を走ってたら、警察に捕まったんだよ。」

「え、なんで?裸でランニングでもしてたの?」

 ルカはいたずら好きそうな目をして覗き込み、屈託無く笑った。裕士の知っている高校時代の物静かなルカと違う一面を垣間見た気がして、裕士はどきりと恋をした。

「え、あ、違う違う、バイクで走ってたんだよ。スピード違反。40キロオーバーで、一発免停だよ。まあ、捕まったのもショックだけど、『職業は?』って警官に聞かれて、『浪人生だ』って答えたら、『無職』だってさ。いまさら気付いたけど、俺達、社会から見れば、無職なんだってね。あー、切ないね。」

「・・・、そうか。必死で毎日勉強してたけど、改めて言われると、確かにそうだよね。来年は、二人とも受かると良いね。」

 裕士は、何のたわいも無く、ごく自然にルカと自分が話している事が意外だった。こんなに簡単な事なのに、何で高校の時は、腫れ物に触るように、話す事を避けていたのだろう。きっかけさえあれば、実に何てことはなかったのに。高校三年分の想いから堰を切ったように話したい事柄で胸は溢れた。ハナシタイコトガ、イッパイアルンダ。裕士は、このままずーっと、こうして話してたかった。そう思った裕士にルカは、思ってもみない提案をしてきた。

「バイクかぁ。裕士くんのバイクって大きいやつ?」

「うん、250CCの中型。」

「わたしバイクの後ろって、乗ってみたかったんだ。」

 これって誘われてるのか?このチャンスを逃すな裕士。がんばれ、俺!

「あ、じゃあ今度、ドライブしようか!」

「え、良いの。うれしいな。」

「確か、裁判所に呼ばれるまでは、この赤切符で運転して良いって、白バイが言ってたから、近い内になら、まだ乗れるよ。ちゃんと、安全運転するからさ!」

「迷惑じゃない?」

「ぜんぜん。メットを二つ用意しとくよ。」

「じゃあ、明日は用事があるから、あさって図書館で会わない?」

「OK!」

 二人は携帯電話をくっつけて赤外線で、電話番号を交換した。席に戻ると、再び勉強をし始めた。金曜日の今日は特別に夜七時まで図書館は開館している。ルカは暗くなる前に帰ったが、帰り際にアイコンタクトで手を振った。まるで付き合ってるみたいだと、裕士は浮かれた。ルカに猛勉強をしている姿を見せたいという格好付けもあったかもしれないが勉強がとても捗って、気が付けば、二年分の過去問題を解き終えた。外に出ると、コオロギが鳴いていた。見上げた白色の街灯に目を細めた。一条の光となって照らし出された空間には無数の小さな虫たちが飛び交っていた。深呼吸をすると、深々とした草の匂いがして、五感を刺激された。この世は、なんて生命の煌きに満ち溢れているんだ。今まで余裕が無かったのか、こうして自然を感じたのは久し振りな気がした。裕士はとても幸せな気分だった。バイクのエンジンキーを回して、アクセルを二度ふかすと、軽やかに図書館を後にした。バイクを走らせながら感じた夜の風は、しっとりとした秋の潤いを含んでいた。十九歳の夏ももう終わる。迫り来る季節の変わり目は夏の熱気を素早く奪い、ひんやりとした肌寒さに、裕士は人恋しさを募らせた。

**************【次回へ続く】*********************

やっと原稿用紙、100枚を越えました。あとこの2倍書けば、終わりそうです。

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2009年5月10日 (日)

立て!鏡のような波頭の上に 36話 放課後の図書館のロビーで思い切って声をかけた

 104654・・・

 裕士は自分の受験票の番号と机に貼られた番号とを照合しながら席を探した。そして、その席を見つけた時に心の臓が止まるほどの稲妻が体を駆け抜けた。

 席の隣に座っていたのはルカだった。

裕士は声を掛けようかどうしようか、躊躇いながら席に座った。ルカは裕士の事を気付いていないのか、もしくは、気付いたとしても別にどうという事は無いのか、後ろの女友だちと昨日見たテレビの話をしていた。まあ、確かに、高校時代に面と向かって話、というか二言三言の会話をしたのが一回きりという間柄である。別に卒業後、町でばったりあったとしても、その再会を喜んで過去を懐かしむような二人のエピソードなど皆無に等しい。ただ、裕士が一方的にルカの事を気にしていただけである。

裕士が一人、どぎまぎしているのをよそに、試験は始まった。

試験は全く身が入らなかった。

試験の休み時間でも、裕士は「やあ、久しぶり」の挨拶すら声を掛ける事ができなかった。試験中のエピソードといえば、試験の最中、筆圧の強い裕士のシャーペンの芯が折れて飛んで、ルカの答案用紙の上に落ちた事と、「旗」のスペルがLかRどうしても判らず、気を取り直すために首を回したら、ルカの答案用紙に「flag」と書いてあるのが見えた事位だった。何でルカの用紙の上にシャーペンの芯が飛ぶんだよ、と裕士は自分の間抜けを呪ったが、視線は自分の答案用紙に向けたまま、意識は左脇のルカを気にしていたら、ルカはそのシャーペンの芯を手で払う事はせず、試験を解き続けていた。裕士は自分勝手に、その出来事をルカが少しは自分に気が有るんではないかとのすがるような妄想に耽っていた。そして、もうひとつ。以来、裕士は「flag」というスペルは、生涯忘れる事は無かった。

ルカに声すら掛ける事が出来なかった自分の不甲斐無さを裕士は心底後悔した。特に華やかなイベントもハプニングも無い、毎日が淡々とした冴えない浪人生活である。ルカが浪人していた、というだけで裕士にとっては一大事件である。あの日以来、図書館で、予備校で、駅で、電車で、ルカに出会わないかと、そわそわして過ごした。予備校では見かけないことから、きっとルカは他の予備校の生徒で、あの日だけ全国統一模試を受けに来たんだと、裕士は一人勝手に総括した。

試験の結果は、散々だった。相変わらず、慶応大学医学部はD判定。他の滑り止めの大学も軒並みD判定で、自分は来年もどこにも行けないんじゃないかと焦り始めた。若者特有の自負心であろう、自分の決めたラインの大学以外なら行く意味は無いと固く信じていた。二浪するか。その一方、出口の見えない浪人生活を早く終わらせたい、という疲れも出始めていた。決して勉強で疲れるのではない。そんなに勉強はしていない。環境に疲れただけである。体力も気力も充実した二十歳前後の貴重な時期を、大学に行くという勉強だけで一年も二年もやり過ごす事に意味はあるのだろうか。もっと他に大切な事、経験しなければならない事は幾らでもあるのではないだろうか。八月も残すところあと一週間。日によっては、秋の気配さえ感じられる季節になり始めていた。

予備校に午前中から行く事は皆無で、昼過ぎに漸く行くような日々が続いた。昼過ぎに行けば、大抵予備校の自習室は埋まっており、裕士は、それを見届けて、図書館に行く、それでも座れず、青少年会館に行く、という日々を過ごすようになっていた。

そんなある日。いつもの通り、予備校の自習室は満席で、放課後は図書館に行った。誰もが押し黙っていて、町の喧騒から取り残されたような静かな図書館の階段を登る。一段、一段、階段を登るごとに、二階の自習室の全景が見えてくる。人々の頭が見え、顔が見え、体が見えてくる。全階段を登ると、自習室の中央に座っているルカが見えた。

一番端の席が空いていたので、そこに座った。座って、参考書を取り出して、数学の問題を解いた。ルカを何度も盗み見たが、彼女は休むことなく、赤本を解き続けていた。凄い集中力だな、と感心し、オレも負けてはいられない、とやる気を掻きたてられた裕士は夢中で問題を解き続けた。

三時間経ち、自習室にオレンジの西日が差しかけた頃、ふと見やるとルカは席を立っていた。裕士は、ルカを探すように図書館の階段を降りていった。少し歩くと、図書館のロビーでルカが一人缶ジュースを飲んで座っていた。横を向いたルカは遠く窓の外に赤く映える富士山を見ているようだった。残照の富士も確かに綺麗だった。が、それ以上に、窓から差し込む夕陽を浴びて佇むルカが映画のワンシーンを見ているように美しかった。そしてその光景は、一瞬で消えてしまいそうに儚いものである事を裕士は刹那に理解した。

心臓が生涯感じた事の無い程激しく、動悸する。痛いくらいに鼓動が波打つ。裕士は、目を瞑った。一度予備校で見掛けて声を掛けられなかった日以来の後悔と、つまらない日常を思い出す。その日々を打ち破るように、目を開けると、「やあ、」と思い切って声を掛けた。

**************【次回へ続く】*********************

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2009年5月 8日 (金)

立て!鏡のような波頭の上に 35話 予備校の湿っぽい廊下であの娘を見つけた

 トラブルはあったが、どうにか全国統一模試の開始時間には間に合った。裕士は、予備校脇の歩道にバイクを停めると、予備校のロビーに入っていった。

 ロビーはいつに無く人でごった返している。正規の塾生のほかにも、他校の予備校生や自宅浪人生もこの日は試験を受けに来るからだ。試験の準備で直前まで教室に入れないため、沢山の生徒がロビーや廊下で待機しなければならなかった。群集の雑踏はわんわんと裕士の耳元で聞き取れもせず、反響した。裕士は、よろめきながら人波の中をかきわけ、壁づたいに歩いた。壁には、ミニテストの結果や、夏期講習の案内や、キャンパス見学会の情報など数多の紙が雑多に貼り出されている。廊下には、会話もせず、参考書や英単語帳にゾンビのように張り付いている生徒が大勢いた。この予備校の陰気臭い感じが堪らなく嫌だ。一方、階段の踊り場には、試験を諦めたのだろうか、パチンコの話に興じる一団がいた。毎朝予備校に来る事は来るが、自習室に鞄だけ置いて、夕方までパチンコに行って帰ってこない連中だ。傍目で見ても、彼らがそれなりの所に受かる気はしない。あっちで騒いでいる日に焼けた集団は、現役高校生だろうか。現役生は、この時期でも底抜けに明るい。部活も大詰めだし、文化祭だったり、体育祭も控え、溌剌としている。外に通じる非常階段では、既に二浪を越えた牢名主のような長老達が堂々と煙草を吸っていた。ここには、ストレートで大学に行った横山良幸や伊藤峻のような茶髪の生徒は少ない。もっさりとした黒髪の集団が、これまた湿っぽい陰気臭さを醸し出していた。自分もそんな一人である事は棚に上げ、裕士は軽蔑するようにそうした集団を傍観していた。ぐるりと一面を見渡すと、ある場所ではたと目が釘付けになった。

 予備校の湿っぽい廊下で、ルカを見つけた。

 ルカは、壁に貼られたキャンパス案内を見上げていた。その横顔は、高校の時のあの頃のままだった。ただ、あの時と違うのは、ルカがセーラー服ではなく、大人びた私服のスカート姿だった事だ。予備校の廊下で佇むルカの涼しげな姿は、例えるならば、魍魎達の蠢く地獄の底に咲いた一輪の白い花。裕士にはそう見えた。

「ルカは大学に行かなかったのか?それとも彼氏の付き人か?」

 真面目なルカが浪人する事を半信半疑に訝しがっていると、教室に入室できることを知らせるチャイムが鳴り、人波は一斉に洪水のように教室へ殺到し、裕士はルカを見失った。

**************【次回へ続く】*********************

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2009年5月 1日 (金)

立て!鏡のような波頭の上に 34話 お前無職か

 裕士は渋々免許証を取り出して、警官に渡す。警官は、裕士の顔を見もせず受け取ると、手元の赤い用紙に何やら書き始める。

「君の名前は?マエノヒロシ君?」

「前野裕士、マエノユウシです。」

「これでユウシって読むんだ。歳は?」

「十九です。」

「住まいは?」

「足柄下郡湯河原町土肥×丁目××××・・・」

「職業は?」

「浪人生です。」

「浪人?」

「ええ、大学受験の浪人中です。」

 警官は暫く考えると、

「あ~、無職ね。」

と、おもむろに言うと「無職」と用紙に書いた。書き終わると、一転丁寧な事務言葉になって、

「今回は四十キロの速度超過により免許停止処分になります。後日、葉書が行くので、そこに書いてある日時に、指定の簡易裁判所に来てください。今回は、免許証はこちらで預かります。その間、これが免許証代わりになります。これからは、スピードの出し過ぎに気を付けて下さいね。」

と言って、赤切符を裕士に渡すと、疾風のように去っていった。裕士はバイクに跨ると、法定速度きっかりに走り出した。しかし、ただ茫然自失に走るだけ。帆を失くした船のようにフラフラとうつろになった。

 オマエハ無職ダ

 オマエハ無職ダ

 オマエハ無職ナノダ!

 今まで自分は、今でこそ浪人生として燻ってはいるが、伏龍鳳雛たる医学部志望の予備校生で、将来は絶対に開業医としてのし上ってみせる、と自負していた。そのプライドが粉々に崩れた。何てことはない。自分は、人様から見れば、「無職」に他ならないのだ。

「無職」

 どこにも帰属していない。かと言って、自由、ではない。不自由な無職。心の底から楽しんで遊ぶ事さえできない翼のもぎ取られた浪人、無宿人、根無し草。ああ、俺は無職なのだ。という現実を第三者に突きつけられると、今まで固いと思っていた地面が、液体のように流動化するような不安定感を感じた。トラック、社用車、カップルを乗せた2シーターの車、行き交うどの対向車も実に見事に社会に帰属し、活き活きと活動している。一方自分は、生い茂った樹木から切り離された一片の葉。トラックは物を運び、料金所には何時でも集金人が居て、コンビニに入ると店員がレジを打ち、定食屋に入るとコックが鍋を振るう。遠くの沖合いに見える漁船では、その食材たる魚を漁師が捕り、魚市場に揚がり、またトラックで全国に運ばれていく。無職人たる自分は、そういった社会の生産活動とは無縁だ。そう思うと自分なんて、別に居なくても良い。

ソウ、オレハ無職ナノダ・・・

 真鶴道路は一般道たる国道135号線に繋がり、暫くは海岸線に並行する一本道となる。右手には青一面の相模湾が広がる。裕士のバイクは、力なくトボトボと、晴天の海岸道路を予備校のある小田原に進んで行った。今日は、全国一斉模擬テストの日である。

**************【次回へ続く】*********************

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